負けないこと 投げ出さないこと 逃げ出さないこと 信じぬくこと 中編
2017.10.19
母方の親の話になるが、じいちゃんは小さな診療所の内科医であった。母親も物心ついた時にはあったという平屋の古い診療所。その外壁には蔦が覆い、元々は白かったであろう外壁も長年の雨や風に晒されたせいか、すっかり色を失っていた。建物の中は田舎のバス停のような佇まいで、青色が褪せたビニール製のベンチが二脚、壁を背にL路に置いてある。診療所なのに円柱の灰皿がそのコーナーにあるのをよく覚えている。
今思えば評判は良くなかったのだろう。患者さんは居ても二、三人。近所にあればヤブ医者だと罵っていただろう。
そんなじいちゃんが死んでもう30年。温厚な人であったが、食べ物の好き嫌いをすると必ず血相を変え怒った。
ユウスケ!好き嫌いはダメだ!残さずにちゃんと出されたものは食べなさい!
ばあちゃんが出す昔ながらの食べ物に苦戦を強いられると間違えなく言われた。いつの日か、どうしても冬瓜の煮物が食べれなくて箸を置いてると、じいちゃんがこう言った。
なぁ、ユウスケ。知ってるか?医者が病気を治すのは間違っているんだぞ。医者はなぁ、風邪だって治せない。病気を治すのはお前自身なんだ。じいちゃんはお前の身体の声を聞いてあげて、効率よく回復するよう処方してやる。それだけのこと。傷を縫ったり、血管を切ったりと様々なことはするが治そうとするのは人間自身なんだよ。ほとんど医者は勘違いしとる。だから好き嫌いせず、ちゃんとした食事をキチンととりなさい。バランスの良い食事がお前の資本になるんだ。
この年まで病気もなく丈夫の体でいられたのは、そんなじいちゃんが居てくれたからだろう。じいちゃんに対して沢山の記憶はないが感謝している。だが、そんなやり取りのなかで印象に残っていることがある。それは幼ながら言った言葉だ。
じいちゃん!好き嫌いをせずに食べれば僕は強くなれるんだよね?
男の子はみな戦隊ヒーローに憧れを持つ。カッコよく強くなりたい。
あぁ、そうだ。沢山食べてよく動きなさい。お前は強くなれる。
じいちゃんに言われれば、そうなれるものだと信じられた。
たがユウスケ。仮面ライダーになりたければ、もうひとつ強くならないといけない場所がある。それは心だ。心は身体のほど簡単じゃなく複雑だ。学生の頃、それを治す医者にじいちゃんは成りたかったが成れなかった。心は傷つきやすく脆い。折れた心は自分自身でしか治せないのだよ…
負けないこと 投げ出さないこと 信じ抜くこと 中編
トンネルを駆け上がり、ジリジリと真夏のような太陽が急激に体温を上げていく。海岸線に入りこの時間、この距離で、一段と汗の量も増えた。ここまで高濱さんとレースを作ってきた。フルマラソンを4時間以内で走るには1キロあたり5'40で走る必要がある。30キロまで5'20で走れれば600秒の貯金ができる計算だ。残りの12.195キロをその貯金を使い、走りきるプランにしてる。
22キロの表示を過ぎた。違和感をはっきりと捉え、並走している彼は少しづつ遠くなっていった。視界から離さないよう必死に喰らいつく。その差は15メートル程だろうか。少しピッチをあげて追いつこうと思ったが、残りのを20キロを考えればとても出来るものではなかった。
キッカケは突然だった。気温が高いので給水はいつも以上に大事にしたかった。直後の給水所では走りながらではなく歩いて給水をした。身体を冷やすのは勿論、筋肉への負担を和らげる為にも絶対である。次の給水はレースを展開する重要ポイントであった。いつも以上に慎重に作業を終え再び走り出すと、さっきまで見えていた彼の姿は、また遠くに映り脚を鈍らせた。距離はもう20メートルは離されたろう。その差はとても遠く、1つの目標を諦めさせるには十分な距離でもあった。
今年もダメだったか…
努力が足りなかったのか…
気温が高すぎたか…
真夏の走り込みが少なかったのか…
そんなことをグルグルと考えてるうちに彼は視界から消えた。
ハーフまではキロ5'20で走れた。だが24キロを過ぎ5'35、26キロで5'42。27キロで6'03と、気力の消耗が激しく貯金を作るどころか使い込んでいた。照り返しのキツい西海岸を孤独に進む。沿道の声援は途絶えることはなかったが、それはもうひとつの画像としてしか認識できなかった。本来なら射すような光が海水に乱反射し、水際のさざ波が光のタクトを振るよう夏の思い出に心躍るのだろうが、それらは色を失いモノトーンのに静止画のように見えていた。
西区に入り更に日差しは降り注いだ。脚が痙攣しているのだろうか。立ち止まり腿を必死に摩っている人をチラチラ見かけた。怪我のような症状はないもの、一歩一歩が重く、体より心が悲鳴をあげている。
去年の初マラソンは遅くても歩かないでゴールできた。結果はイマイチでも納得できる走りであった。しかし、今年はどうだろう。29キロの折り返しを直前に、今にも立ち止まりそうな自分がいた。すでに目標タイムは諦めたが、最後まで悔いのない走りをしたい一心で、なんとか喰らいついている。小針浜の折り返しを過ぎエイドステーションで給水やフルーツなどの捕食する。
そして残り13キロ。子供達の万代太鼓が鳴り響き会場を盛り上げている。頑張れ、頑張れ、と一音一音懸命に鉢を振っている。全員が完走してくれるよう願いを込め。それを多くのランナーが笑顔で応えていた。
応えようとした。
真剣な子供たちのために。
応えようとした。
仲間たちが支えてくれるから。
応えようと。軸足に力を込める。
走り出せない自分がいた。
じいちゃん…
俺…
ぽっくりと折れちまったよ…
ここが…
つづく